石垣山観音寺
創建白鳳2年の歴史
平安時代の後期、日本の仏教界には末法思想が広がり、密教、特に天台宗の寺院で書写した経典を来世にむかって永久保存する供養が盛んになされました。観音寺の境内からは今までに九箇所の経筒が発見され、中でも900年の時を遡る天永3年(1112)の華麗な銅製経筒には、埋蔵紙本写経として「法華経全巻」が揃った日本最古の経文が内蔵されていました。なお、写経では「橡染紙銀字大般若経」、「紺紙金泥書経文」など寺宝も多く伝えられています。
九州西国霊場第十九番札所
また、石垣山観音寺は、奈良時代の和銅6年(713)に始まったといわれる日本最古の観音霊場「九州西国霊場」の第十九番札所です。霊場をつつむ自然の中で感謝の思いが芽生え、逆境にもくじけない「観音妙智力」が宿るとされる巡礼の道。第一番の英彦山から三十三の寺を巡りくる人々が後を絶えません。
石垣山観音寺のハルサザンカ
師走になると、ハルサザンカ「観音寺」は、他の木々より一足早く花を咲かせます。
樹齢350年といわれ、花は中輪の半八重で赤く、丸みをおび、染色体数が2n=45で、四倍体のハルサザンカ「凱旋」に二倍体のヤブツバキが交雑してできた三倍体ハルサザンカと推定されています。
この三倍体のハルサザンカには「三段花」「蜀光錦」「飛竜」「鎌倉絞」などの名品が多く、三倍体のハルサザンカとしては「観音寺」が最古となります。
三月まで咲き続け、二月に「さざんか祭」が行われ、住職のご講話や地元の方々の心温まるぜんざいなどのお接待があります。田主丸に春の訪れを告げる古木です。
みのう
耳納山の名の由来
顔は牛、体は鬼「牛鬼伝説」
人々の思いの深さからか、耳納連山は歴史の中で様々な呼び名で登場します。それがどうして「耳納山」となったのか、いろんな説がありますが、そのひとつである「牛鬼伝説」は、今も石垣観音寺に語り継がれています。
時は康平五年(1062)の晩秋のある夜のこと。「ゴーンゴーン」と突鳴らす時ならぬ鐘の音に、然廓上人は驚いて目を覚ました。「はてな、此の夜中に誰が鐘をついているのだろう。」とつぶやきながら床から起きてそっと鐘突堂に忍び寄っていった。が、ほの白く沈んだ闇が空しく水縄の山裾に腹ぼうているばかりで、何者の姿も見い出し得ない。「不思議だな」上人はつぶやきながら本堂の方へと帰っていった。
しかし、この不思議な出釆事は、来る夜も来る夜もつづき、はては罪もない地元の婦女子が怪物に襲われるという怪異までも起こるようになった。「よし。さらば、御仏の御霊光にかけても」と、意を決した上人は、そのものの正体を突き止めるべく、その夜早くから木陰に身を潜め、時の至るのを待っていた。呪いに鳴くふくろうの声が森にこだまし、山麓の夜はしだいに更けわたっていく。
おお、そこに、風の如く忽然と現れ出た怪物は、何と顔は牛、体は鬼。いいようもなく物凄いもの。しかし、上人は、泰然自若として経文を読み続けるのだった。するとどうだろう。心魂を徹して念ずる御仏の功徳によってか、さすがの牛鬼も神通力を失い、やがて五体の自由さえ失っていった。そして夜のほのぼのと明け放たれる頃、急を聞いて駆けつけた村人達によって怪物の首は都へ送られ、怪物の手は斬りとられ寺に残されることになった。耳は山に埋められ、その山を名付けて「耳納山」というようになったという。
( 『宇枳波・浮羽伝説集』 浮羽郡郷土会 )
大銀杏見守る 安超寺
森部の安超寺の大銀杏は根回り23メートル、高さ12メートルもあり、秋にはその葉が色づき、青い耳納連山を背景に、ひときわ黄金色に輝きます。
正保4年(1647)有馬家二代忠頼の時に下された筑後における東本願寺派への転属に従わなかったために、正徳5年(1715)第六代有馬則維のときに寺のお堂を壊され国外に追放されるという難にあいました。銀杏は寺の創建以来、450年もの間、その波乱の歴史を見続けています。
1500年の大楠が見事な 阿蘇神社
森山の阿蘇神社の大楠は、樹齢1500年ともいわれる、推定では町で最も歳月を重ねた老樹です。その幹の風貌は、長い年月を感じさせる風格があます。
耳納北麓には東西24キロに及ぶ耳納活断層の存在が知られていますが、かつて大規模な土石流があったといわれ、大蛇が集落を練り歩いたという言い伝えも残る森山にある阿蘇神社の境内には、天変地異から集落を守る守り神としてなまずの石像が祀ってあります。
大楠の梢揺れる 恵利八幡神社
恵利八幡神社の大楠は社伝や古老の言い伝えによれば、樹齢は900年を越え、
「平安時代後期七拾参代堀河天皇御宇筑紫大降雨アリテ本社ニハ千年川ノ沼岸タルヲ以テ社殿等悉ク流出依ッテ嘉永元年五月恵利ノ里ヘ霊験神託在リテ豊前宇佐神宮ヲ勧請シ社殿再興ノ際記念植樹サレシ」
とは宮司十一代孫宮司 篠原時雄さんによる碑文にあります。
神社に受け継がれている獅子頭は、この大楠の枝からつくられています。大樹の元で荒々しく舞い、疾走する獅子の口から響くカフカフという快音。それにじっと聞きいっているかのような、静かな風貌の老樹です。
田主丸の開祖創建の 法林寺
田主丸にある法林寺は浄土宗西本山善導寺の末寺で元和元年(1615)田主丸町の開祖菊池丹後入道が創建したといわれ、開山は善導寺の住職純誉上人の弟子、実蓮社真誉宗彦巖和尚で草野永平の子孫です。本山善導寺の別院知光院の住職を勤め、後この寺を開きました。境内には楠、椋のほかに欅などの巨木が悠々と茂っています。
高良山御手洗池の南、豊比売神社境内に「桃青霊神」として芭蕉を祀った田主丸の俳人、十寸穂庵岡良山の墓、俳人浅井花圭、五睡父子の墓、田主丸剣道生みの親、吉瀬善五郎先生の祈念碑などがあります。
平知盛の墓
壇ノ浦の戦いに敗れた平知盛は、わずかの家来を伴って筑後の国にのがれてきました。世はみな源氏に傾く中、知盛の行方もわからないはずはなく、村人に「平家はもう負けてしまったが、平家の一将平知盛が、今日までこの里にいたということを後世に伝えてくれ。妻子と部下をくれぐれも頼む」と言い残し、源氏方となった草野氏に討たれたといわれています。
知盛の死をかわいそうに思った村人たちがその霊を弔ったといわれる平知盛の墓が竹野の隈に残っています。