刻々とその表情を変える
耳納連山
様々な名前
町の南、東西に連なる耳納連山。その稜線は一直線で、屏風にもたとえられ、雨の後に立ち上る水蒸気や、朝夕の光による陰影で刻々とその姿を変えてゆきます。
長い歴史の中で、麓に白く霞がかかる姿に「足白山」。または神に届くための台にみたてての「足代山」。そして一本の水縄を張ったような稜線に「水縄山」とも呼ばれ、その美しさは、多くの人々の心をとらえてきました。
地図は南が上
田主丸の人々は、その耳納の山を日々見て暮らし、頭の中にある地図は山の方、つまりは南が上です。
町を離れた人々は、山を見て「ああ、故郷に帰ってきた」と思い、「山があるから」、また故郷に戻る人々がいます。
その麓に人が暮らし始めたはるか昔から、「自分はここにいる」と思える証だった耳納の山。
今日も青く、ゆったりと連なっています。
悠々たる筑後川
日本三大河川のひとつ
筑後川は九州随一の大河です。
その流れは、まず熊本県の阿蘇外輪山より発する大山川と大分の久住山に発する玖珠川を日田盆地で併せ、三隈川となります。これが大分県と福岡県の境にある夜明渓谷を経ると、その名を筑後川と変え、幾多の支流と合流しながら有明海へと注いでいます。
全長143km、四県にまたがる流域面積は2860平方km。
年間50億トンもの流れで筑後平野を潤す筑後川は、別名「筑紫次郎」。「板東太郎」こと利根川、「四国三郎」こと吉野川とともに日本三大河川の次男に数えられるのは、水位の上下差を表す河川係数が全国で二位ゆえ。
筑後川の歴史は、すなわち大水の歴史です。
筑後川に挑んだ人々
その大水に苦しめられながらも、筑後川を治め平野に水をひこうと挑んだ先人たちがいました。
その物語は、今も五庄屋伝説として大切に言い伝えられています。
それから350年、田主丸はその筑後川流域の真ん中で、川と人の関わりの歴史を刻み続けています。
筑後川と片の瀬橋