福岡県久留米市田主丸町

/ 耳納連山が広がり自然あふれる久留米市田主丸町。食に 観光に 体験に 楽しみいっぱいの田主丸で 素敵な時間をお過ごしください。
田主丸町観光振興会 まちづくりの歴史
筑後川

田主丸河童族
田主丸河童族
文化人たちとの交流
昭和30年7月、芥川賞作家火野葦平をはじめとする九州文学会同人たちが、まあしゃんの鯉とりを見ようと田主丸を訪れていました。
まるか旅館での宴で、彼らを顧問に「河童族」を結成しようという話が盛り上がり、「九千坊本山田主丸河童族」結成放談会が行われました。会員は11名で顧問は葦平に九州文壇のリーダー的存在だった原田種夫ら7名。
河童族信条
初代会長は高山重城さん(後に片の瀬郵便局長)。
日頃から赤ふんどしに高下駄、腰に大煙管といったいでたちの「風雅人」として知られていました。
背に河童の顔を染め抜いた濃いうぐいす色の法被の裾をひらつかせ、
15日には葦平の招きによって高塔山で行われた若松カッパ族の集まりに11人が参上し、
町をのし歩き、人々をあっといわせました。

会費は「胡瓜代、皿用特級水」。
河童族は、いつも遊びの精神に満ちあふれ、酒を片手に飄々と夢を語っていました。

田主丸河童族が掲げた信条は次のとおり。

一、われらは、いとも仲好く相撲をとり、いとも楽しく嘴を交わし、
   この皿に、この世の中に、かっぱ天国を現世せん。

二、われらは、おのれのかなしき性をかなしまず、心うれしき宴にうちつどい、
   ひょうひょうと鳴き、飄飄渺渺として楽しまん。

三、われらは、文明開化の荒波をけとばし、ふるさとの山川の妙なる美しさに沈潜し、
   心はろばろ心ゆたかに生きぬかん。

四、われわれは世の習俗にみじんも動揺せず、河童の伝統と精神を継承し、茶を啜り酒酌みかわし、
   清談放話つきることなく、わが生活をエンジョイせん。

五、われらは、常に河童的共存を主張し、本家争い縄張り争いをやめ、
   泥沼のごとき人間社会の浄化をはかり、夢多きロマンの世界を展開し、
   平和楽土の建設に邁進せん。


夜明ダムの完成とともに筑後川の流れは一変し、川を舞台にしてきた生業や人の流れは大きくかわりました。
危機感を感じた田主丸の「河童」たちは、葦平の力を借りて酒を酌み交わしつつ夢を語っていました。
そんな河童族は「楽生」の田主丸の名を広く知らしめた戦後のまちおこしの先駆者でもあったのです。
九千坊の総本山は田主丸
田主丸での葦平は河童のご神体を見て回り、伝説をノートに書きとどめ、生涯で四三篇、原稿用紙一〇〇〇枚を超える河童の小説を書き『河童曼陀羅』という集大成が生まれました。そして耳納山と、ゆったりと青い水をただよわす筑後川と、田主丸の人々をこよなく愛していました。後書きのひとつに、葦平がその思いを綴っています。
「田主丸には『九千坊河童一族』というおもしろい人たちが住んでいる。その頭目は高山重城旦那で、私は高山重城さんの紹介で「鯉とりまーしゃん」こと上村政雄君を知ったのである。筑後川に出かけ、しばしばまーしゃんの妙技を見た。坊さんの福田秀実君、菓子屋の藤田兄弟、旅館の鹿毛さん、電気屋の熊谷龍雄さんなどが河童一族だ。これらの人々を、私はなん度小説に書いたか知らない。これからもきっと書かずにはいられないだろう。かならずしも気に入るようにばかり書いているわけではないが、みんなよくわかってくれて一度も私を怒ったことがない。」


その思いは第二世代へ
故郷の若松をさしおいて、葦平は田主丸を河童九千坊の総本山だと言ってはばかりませんでした。その筆によって全国に知れ渡った筑後の小さな町。田主丸の河童が葦平を町に引き込んだのです。
昭和35年1月、葦平は突然この世を去りました。自殺とわかったのはずいぶん後になります。
生前、葦平が「田主丸小説集を出版するよ」と言っていた遺志を受け継ぎ、河童族の面々は奔走し「月光菩薩」という小説集を編みます。4月30日の出版パーティーでは葦平の遺影を前に酒を飲み、河童を語り葦平を偲び、まーしゃんの店「鯉の巣」へとなだれこみました。その後、葦平の人間の魅力に引き寄せられていた河童族は、求心力をなくしていきます。時代は高度経済成長のまっただ中。河童たちは深い眠りについたかのようでした。
しかし、一旦は途絶えたものの、その活動と信条は第二世代へと引き継がれていきました。田主丸河童族は今も酒を酌み交わしながら、飄々と田主丸の未来を語り合っています。
九千坊

「月光菩薩」出版パーティー

巨瀬川
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